原始鱈魚(げんし たらうお)のブログ

Bossa Nova・Samba MPB をギターで伴奏して一人で歌いたい人のブログです。

ギターで伴奏して歌うこと

ボサノバとかブラジル音楽を自分でギター伴奏して歌おうとして数年になります。
僕の趣味のひとつで、いろいろ工夫をしようと思って停滞しながらも続いています。
ボサノバの歌についてはグループレッスンに入って講師に教わって、ポルトガル語の発音も直されて出来るようにはなると思ます。
 
ギター伴奏について、楽譜を買って、バッキング 自然なコードの取り方をギター講師について教わってやがてできるようになるでしょう。
こういうの、環境を自らセッティングした時点である程度成功といえます。
歌とギター伴奏の結合ですが、どちらかを先に単独で出来るようにして、ゆっくり合わせていけば出来るように思います。
 
これって諦めずに、中断があっても再開して時間をかければ、何十回、もしくはそのうえの桁数を練習すれば出来る範疇だと思います。
 
陸上の跳躍系の種目ではなく、飛べない高さのバーをクリアーするということではないようです。
あとは、出来るようになって、お仲間との発表会で歌って披露しておしまい。ですが、時々思うのは、その上ってないのかしらん。
演奏家として職業化するとか、自ら教室を興してとかは、そのレベルに僕は行かないだろうし、僕としては精々同じ同好の方に楽譜を提供する側にまわるぐらいだろうと思います。
 
僕の目指すのは、素人の落語噺家集団の一員みたいな立場でみんなで高座企画して、演目掲げて知り合いに告知してポスター作って、WEBでも広告打って一般の人にも来てもらって、区民館だかのホールでそこそこの入りで熱演をしたい。お疲れって打上げしてまた来年、というのだけれど、再び思うけど、その上ってないのかしらん?
演目を披露するということは、客席の方とよくご存じの落語の噺を同じようにトレースすることに似てると思います。
 
ボサノバ系の曲でいうと、聴衆はボサノバ系に詳しい人も多いし、同じく演者の仲間だったりするので{Desafinado}を歌うなら、この曲をみんなで同じ空間で追体験するような事になるのだろうと思う。この場合、下手でも上手でも、それはいいのだけど。
 
僕の歌の先生が「歌がうまいというのは、高々しれている、、」彼や彼女がものすごく上手く聞かせてもらった後だったか、ボソッと言ったのを覚えているけど。僕たちのアマチュアの一人が変に器用に上手く曲を歌っても、癖のある歌い方の、もしくは朴訥とした、あるいは破天荒な歌唱のほうが良く感じる時があります。そういうことでしょうか。
若くて、魅力的な青年男子、同世代の彼女たちの歌ってそれだけで惹きつけられるものがありますよね。
 
じゃ歳を重ねた人の歌って評価の重心とかはどうなんだろう。年を重ねていくのはみんな平等で同じように衰えていくのだけど、歌についてはその方の歌に魅せられる要因はたぶんこうだと思う。
 
長年練習をして積み重ねた技術は必須だけども、彼もしくは彼女が立っている境地というのが大事で、それは若い時には分からなかったけど年を重ねて演じる時に演者がいつも工夫とか趣向と試してまた元(ニュートラル)の位置に戻ったりするけど、あっと新境地もあるな、見えなかったものもある、新鮮に感じながらルーティンも含めて楽しんで演じているときに、凄みもあって魅力的な演奏と感じるのではないのかしらん?
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僕の、なんかぱっとしない落語の面白くない噺を聞いたときに使う評に「立っている境地がしょぼくていけねぇ」というのがありますけれども、僕もそうならないように、精一杯遊んで、のめり込んで、移動して、工夫して、火宅の人になっても何もないよりましみたいな横島な考えで、健康に留意して(ほんとに)波なんか見つめて歌っていこうと思います。
2021年の追記
映画の[Hokusai]見たのよね。